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neo-education

個人的な「教育観」を伝えていきたいと思います。

007 文学と音楽の違い(音楽好きを非難されたことへの反発から)

教育
文学は、あくまでも「フィクション」である。
話の内容はともかく、人間は、文章を読むことによってある種の知識を得る。
また、文学作品を通じて、作者の考え方に対して読者がある種の影響を受けることもあり得る。
もちろん読者が、ある種の価値観や倫理観、考え方を読者それぞれが文学作品を通じて構築することもあり得ることであろう。
その行為は、「旧約聖書」や「新約聖書」を読んで覚えること、またそれに従って行動することに、何ら変わりがないのではないだろうか。
 
人間は、成長過程で発達課題を克服しなければならない動物であるが、人間の思考そのものは、周囲の人間関係や教育といった環境に左右されるし、言語の習得によって、文学をはじめ音楽などのメッセージを受けたり、または個人の感情や思想などを構築することによって、人間だけが持つ「感情」を言語を通じて表現したり、共有することができるようになる。
 
もちろん、人間のもつ信条や宗教心、倫理観については、生まれ育った国家や地域の違いにより、考え方や受ける影響も差が出てくるだろう。どの考え方(宗教や哲学など)が正しくてどの考え方が間違っている、といった事に関して、文化人類学的には、それを比較すること自体に全く意味はなさない、としている。環境が違えば人間が持つ「倫理観」も違ってくるし、もちろん読者が読んだ作品によっては、読み手が構築していく倫理観や正義感なども、その作品の作者の考え方に影響を受けて変わってくるだろう。時代の変化とともに…。
 
読んだ作品に対して、読み手個人がもつ趣向(好き嫌い)を取り除いたとして、作者自身が生まれ育ち、築いてきた人間関係や受けてきた教育的環境により、作風も変わってくるだろう。
もちろん、それを読んだ読み手も影響されない、ということはあり得ない、と私は個人的に考えている。
 
無意識のうちに、文学を通じてある種の「宗教的に近い信条」や「個人の倫理観」「善悪の区別」などを個人が構築していくことは、結果的に「作者の価値観や作風に対して読み手が一方的な影響を受けやすくなり、他の価値観に対し無頓着になる」という傾向を生み出しているのではないだろうか。
 
2016年のノーベル文学賞は、印刷された活字だけの文学作品ではなく、作詞したものをロックというジャンルの音楽に乗せてメッセージを発してきた「ボブ・デュラン」であった。
 
私が思うに、時代の変化が速くなり、「偏った倫理観」や「間違った宗教観」を排除した、比較的歴史の浅いロック・ミュージックが世界的に共通した概念をもたらした成果だと確信している。
 
文学そのものが悪いのではない。文学作品から得た知識だけで、経験を伴わずして自分の価値観や倫理観を構築して、他人にそれを強要したりする行為が、個人の自由な信条を持つことに対して反してはいないだろうか。
 
本を読まない若者に対して、大人達が強く非難する傾向が最近まであった。
文学作品が若者へのメッセージとして伝わらなくなったのは、その作品自体が完成と同時に情報の遅滞現象が生じているためである。若者にとってそれは「理解不能なコード」と化している証拠なのでだろう。
 
「人間は社会的動物」であるが、同時に「感情を伴っている動物」なのであるから、相手に強いメッセージを伝えたいのであれば、言葉の持つ力に「メロディ」というエッセンスを加えた方が、より効率的かつ効果的であろう。
 
ロックやPOPミュージック自体が「軽薄だ」とか「歌詞に信憑性がない」とか「言葉の重みがない」などと言っている学者や教師がもしいるとするならば、その人たちは、私から言わせれば、歌うことを拒絶したただの「音痴」な人間なのである。
仮に文学的な難解な語彙を用いて相手に自分の意志を伝えたとしても、相手にその意味が全く伝わらなければ、その言語の持つコード的な役割は、もう終焉を迎えているのであろう。受け手の教育的水準が低いとか高いとかは、音楽には一切関係ないのだから…。
 
2017/01/11